ただの雑駁

理屈と均整を求めたがります。仕方ないですよね。人間だもの。

自由、小さな幸せ

最近、森博嗣の「馬鹿と嘘の弓」という小説を読みました。
この作品は森博嗣のXシリーズと呼ばれるシリーズ作品の続きで描かれた作品です。

正直、こと日本においては現代社会で生きるためにすべきことがあまりに無くなりましたよね。
仕事を失ったら死にますか、親に捨てられたら死にますか、自由に振る舞ったら死にますか、他人を殺したら死にますか?

死にませんよね。

昔は生きるためにすべきことが多く存在していて、食うために何かを為さなければ死にますし、子のまま捨てられたら死にますし、社会の規則に反すると殺されることもありましたよね。
現代社会において、生きるために行うことが極端に少ないため、生きるために行うことは生きることを助長する行為でしかないんでしょうね。豊かな生活や良好なコミュニティ、自己の欲求を満たすための行為に近しいかもしれません。
森博嗣は未来において、働くことはレジャーになると書いています。レジャーってつまりは「余暇の遊び」なんですね。某SF小説でも未来において人類が行うことは人を愛することだけになる。とかって表現とかもありますね。こういうの結構好きです。

まぁ、上記のようなことをつらつらと書いている面もこの小説ではあるのですが、以下のように書いている面もあったりします。

「小さな幸せ? ああ、そうね。」
「そういうのって、やっぱり、幼いとき、子供のときに、家族とか、お母さん、それから兄弟、近所の人たち、そういうところから来るものだよね。それを覚えているから、大人になっても、周囲で見つけようとするし、自分でも、少し辛抱して、確かに小さな幸せをあげようって考えるんだよなぁ。」

(馬鹿と嘘の弓/森博嗣


子供のときって無条件に、接する人はみな自分に優しいんだ。って思い込んだりするかと思います。
知らない感情を何もなしに生み出すことはできないんだと思います。子供の頃の小さな幸せが大人になったその人のちょっとした感情を紡いだりすることって、多分にあると私も思います。
こういうちょっとした、小さな幸せが積み重なって、余暇の遊びのような事象を許容したり、求めたり、与えたりするのでしょうか。

そうだったら良いなと、少しだけ想います。