ただの雑駁

理屈と均整を求めたがります。仕方ないですよね。人間だもの。

世界が広がる感覚

表題の通りですが、「世界が広がる感覚」ってとても抽象的な言葉なのですが、この抽象的な言葉でしっくりくるのではないでしょうか。

多分恐らく誰にだってありますよね、世界が広がる感覚。

初めて車を買って移動した時とか、案外何処にでも行けるんだなぁ、と感慨深い気持ちになったのを覚えています。
Whatとか、Whyとか、Howとか、Whenとかそういうのは全く関係なくこの抽象的な言葉がしっくりくる感覚を味わうのが人間だと思います。

それは精神的な事柄でもあるし、物理的な事柄でもあるし、一概に表現できない感覚ですよね。そもそも感覚なんて自分の感覚が他者と同一であることが証明できないので、感覚を表現することなんて出来ないんですけど。まぁ、そういった感覚も正確ではないですが、何となく物差しは作れると思います。一度、こういった感覚を正規化するのも面白そうですね。

本題ですが、この「世界が広がる感覚」が一つの、生きるということの糧になるんじゃないかな、と考えます。
ツッコミが来そうな問いですが、本当に理解されているのでしょうか。そもそも、この「世界が広がる感覚」を理性的に考えたことがあるのでしょうか(笑)

上記で記載の通り、一概に表現は出来ないのですが、例えば進学とか、就職とか、結婚とか、出産とか、そういうライフステージに伴う変化って、ほぼ確実にこの感覚をもたらしてくれるんじゃないかと思います。でもライフステージって人類みな同一であるはずもなし。色々とありますよね。
こういった変化に伴う感覚は必ずしも幸福を運んでくれるとは限りませんが、人生に何かしらの感情を与えてくれると思います。そういった刺激が必要なんじゃないか、と。

本当に何でもいいのでこの感覚を自身が得るにはどうすればいいのか、知っておくと良いのでは考えます。知らない人と話すとか、友人を作るとか、自身の意識を変えるとか、分からないことをやってみるとか、なんだってあると思います。


ただ、問題なのが、自身の世界がここまでだったと認識した場合です。
大人になると色々と見えてくるところってありますよね。そうした認識を経てしまうと途端にこの感覚を得るのが難しくなっていくと思います。
漫然と過ごしてしまうことを良しとしないように意識する必要が出てきて、何かしら自身で工夫しないといけない箇所です。

特にオチはないのですが、個人的なオススメはやっぱり読書です。自分の視点で得られるものって限られるし時間もないので、他人視点で見るために読書するのって手っ取り早く知らない世界を知れて、世界が広がる感覚を得られるかもしれません。自分の頭に限界を感じたら他人の頭を覗き見る、ってことですかね(笑)
別に知識とか専門性を求めていなくても、「なんでこの人ってこういうこと考えるんだろう」とか思考を考えてみながら読むのも良いですよね。何かを得るためのベクトルなんて何でもいいんですね、極論何も面白くなくても、何も得られなくても、なんでそうだったんだろう。と考えられたりするので無駄はなかったりします。

つらつら書きましたが、漫然と生きるのは精神的も善くないので、何かしら意識して生きよう。という感じですかね。自戒を込めて書きました。