ただの雑駁

理屈と均整を求めたがります。仕方ないですよね。人間だもの。

簡単に享受できるコンテンツ

ここ最近、コロナによるおうち時間の増加によって、インターネットのトラフィックがめちゃんこ増加しているみたいですね。トラフィック増加するとどうなるか、トラフィックを受け止める設備とかが弱かったりすると速度低下とかに繋がってしまいますね。夜間とかに繋がりにくくなっている地域であれば、ご自宅が原因ではなく、周りも含めて原因かもしれません。

そんなおうち時間をどう過ごすか、本当に色々な選択肢が存在すると思います。
これは最近の世の中で、無料もしくは安価なコンテンツが大量に出回っているのが大きいと感じます。例えば、Youtubeであったり、スマホアプリであったり、オンラインゲームであったり、電子書籍であったり、動画配信であったり、本当に様々です。

現代はこの大量のコンテンツから消費を行っていく、情報過多の世界と言っても差し支えないと考えます。これらのコンテンツに共通するのは、簡略化(楽に楽に行えるようになっている点)とインターネットだと思います。例えば自宅から外に出なくても、お金がなくても、何かを用意しなくても、一手間をしなくても、小難しいことを考えなくても、などなどです。

世の中の発明の殆どは人類の生活を楽にするために発明されたものだと思いますが、こういった娯楽に関しても同様の進歩が見られるように感じます。これらは表面的な意味や価値といった部分については変わらないと思いますが、本質的な意味や価値といった部分については受け手によって変わるのかな、とも思います。

こういった考え方が既に古いのかもしれませんが、簡単に享受できるコンテンツにはコンテキストが失われるように感じてしまいます。

例えば、Youtubeの動画から得られる情報があったとして、それは受け手に受け入れ易くするために作られた動画であり、作り手の意思が介在した情報だと思ってしまいます。これはどのような情報にも言えることではありますが、書籍などと違い、動画では情報量が圧倒的に少なく、コンテキストを理解して情報を受け取ることは困難だと思います。
また、何かを行う為に時間を消費したり、お金を消費したり、ひと手間を掛ける行為にも意味はあるように感じます。何かを行う為の時間は行為に対する達成感や感謝の念、行為を行うための工夫や創意を生み出すことができますし、お金を消費することで行為に対する責任感を生むことがあると思います。

つまるところ、何が言いたいのかと云うと、行為の簡略化が進むと行為に対する価値が薄れていくような気がしています。この大量なコンテンツの時代に流されるまま消費を繰り返す行為はとても楽で、考える必要がなく、気持ちの良いものかもしれません。ですが、手間やお金がかかって、面倒くさいコンテンツしかなかった時代に味わうコンテンツはそれはそれで色々な価値が存在していたはずなので、これらの価値が損なわれるのではと。

そして、その価値から得られたものは決してそれだけに留まらず、他の何かしらに影響を与えるものではなかった、とも思っています。ある種、オタク的な考え方ではありますが、繊細な考え方や表現が生まれるプロセスでもあるかな、と。