ただの雑駁

理屈と均整を求めたがります。仕方ないですよね。人間だもの。

誤読の自由

「誤読の自由」って意識されてる人いますかね。
ネット社会になって、誰の言葉も広く簡単に届けられる世の中になってしまったので、より意識したほうが良いと思ってます。

義務教育時代の国語のテストとかでよく「作者が思っていることを抜き出しなさい」とかってありましたよね。文章の中から作者が伝えたい部分を読み取って、それを回答に書き記す。
これって誤読の自由に反しているとは個人的には思っていないです。そもそも文章から推測されるテーマ性って限られたものになりますし、そこを外してテストを作っているとは思えないからです。日本語を読み解けないのと包含するのは、言い訳になっちゃいます。

「誤読の自由」って何かって考えたときに、それは確かに自由と名のつく通り、個人の解釈を個人自身が肯定することは問題ではない。ってことだとは思います。
ただ、作者さんも何かしらの思いだったり、意図だったり、伏線だったり、まぁ色々と考えていると思うんですよ。そこを考慮もせずに、「私はこう思っている。」って述べるのってちょっと違うな、って考えています。
小説でも映画でも漫画でもアニメでも何でもそうですけど、受け手が存在しないとコンテンツは埋もれた花のようで、受け手の感想だったり、解釈だったりが存在すること自体が作者さんにとっても嬉しいことの一つかもしれないのですが、
文章から推測される意図とかテーマ性ってやっぱり限られたものになってくるので、そこをとらまえないで、読解力の不足による誤読をした受け手の発信は難しい部分だな、って思っちゃいます。

推理小説って、誰が犯人かを特定できるように構成されていますよね。でも、文章から推測される犯人が必ず一人になるという完全性を担保する必要があるかどうかでいうと、そんなことないと思います。
でも、完全性が担保されていないから、様々な推論が発生します。それは作者の作った意図とか、伏線とかを考慮して発生すると思います。
コンテンツに対して解釈が色々と導き出されるのも同じようなロジックだと思います。

ちなみに完全性を担保する必要がないのは、小説を書いたのは作者さんで、作者さんが犯人と書けば、それが犯人になるからです。


最近、某記事で説明過多の作品が多いって話題になっていましたね。作品を見ても、「わからなかった」って言う人が増えたとかなんとか。
現代の情報社会において誰しもが作品に触れる機会を得、そして誰しもが簡単に世界に対して発信できるようになった社会において、それは表層化されただけのようにも感じます。
また、作品というのは一方通行のモノではないと思っており、情報社会においては内容に関わらず影響を受けずにはいられないものでもあるとも。

話は戻りますが、「分からなかった」=「読者の読解力の不足」とも捉えることができますし、「分からなかった」=「作者の表現力不足」とも捉えることができます。
また、個人の解釈が作者のテーマ性に一致するのか、一致していないのかも極論関係のないことだと思います。ある程度の読解力を持って巡らせた結果にはやはり、読者の認識が存在していますし、その結果に対して作者がテーマ性に反すると論ずることは表現力の欠如に繋がるため口を閉ざすことしか出来ないはずです。

つまるところ、価値はあくまで定めた裁量に過ぎず、感じ方は人それぞれだというのが私の考えです。
なお、結局「人それぞれ」になるのか、とは前提として記載したことから感じてほしくはないな、というのはあります。

きみがいいと思ったら、それでいい。誰かから何と言われようと、事実が変わるわけじゃない。
Ludwig Wittgenstein