存在の理由を埋める行為
誰しも一度は何故生きているのかを考えたことがあると思います。
我々は何処から来て、何者で、そして何処へ行くのか。
どこぞの画家もこのような主題で絵を描いていますよね。
人間だれしも、この命題のような問いをして人生を歩むはずです。何となく人生の目的を幸福について考えることで、この命題を満たそうとする人は多いと感じます。
存在するということは他者或いは自分の外にある事柄と相互に影響を与えるということです。ラッセルの幸福論では幸福とは個人で完結させるものではなく、外部との相互影響、つまりは客観に依って得られるものだと述べています。
この幸福論はハッキリ言って納得感があります。上述の通り、存在するということは周辺に影響を与えるということなので、存在している以上は外部との関係性は必然的に行われるものであり、そうであるならば自己で完結せずに客観から得られるものは得た方が幸福の確立が上がるのは明白です。
話は戻りますが、存在の理由について考えるとき、この外部との関係性、客観で考えてしまうことがあります。
「誰かの・何かのためになりたい」「多くの人のために生きたい」等々
自分の存在の理由を外部に持とうとします。これが悪いということではなく、人は存在の理由を求めたがってしまいます。
外部に理由を委ねるのはとても簡単ですよね。(でもそれって、、、と考えてしまうのはタチの悪い人です。)ついつい、簡単な方で自身の欲求を満たそうとしてしまうのは人であるから仕方のないことですが、この人生の命題とも感じる問いをはたして簡易に埋めてしまってよいのでしょうか。自分が満たされるのであれば、それを他者が口を挟む道理は全くないのですが、私はこれが許容できないです。この問いは満たされるものではないからです。仮に存在の理由が定義づけされたとして、それを完全な解とすることなど出来ないからです。
満たされて生きる人ではなく、常に問い続けていたいと願います。
※噛み砕いて以前の投稿の内容を記載しました。
「どこから来た?私は誰?どこへ行く?」
「貴方は、貴方から生まれ、貴方は、貴女です。そして、どこへも行かない」