ただの雑駁

理屈と均整を求めたがります。仕方ないですよね。人間だもの。

着地するものではないかもしれません。

数日間、山に籠って六畳間の部屋に落ち着いていました。

心の平穏を取り戻すべく、日常から離れたゆっくりと健やかな生活を求めていました。
その中で久しぶりに小説や学術書を読んでいて感じたのは、やはりこういう時間も必要だと云うことです。

日毎に消費を続けることは先が見えなくなる行動です。
消費とは、今の知識/身体/思考を使い続けることです。これは仕事でも遊びでも日常でも変わりません。
日毎に消費を続けていくと、精神が摩耗し、利便性を求め、考えることを止めます。ただ、そうした生活を続けることは必ずしも悪いことではないことが難しいところです。生きていく上で、立ち止まり、考える時間が必要のない場合だってあるのです。
自身の状態を見つめるということは、自身の状態を一歩引いた状態から見ることになります。つまりは俯瞰です。この自身を俯瞰する行為は自身に依ってのみ行われる行為であり、全ての人が必ずしも意識的に行う行為ではありません。しかし、自身を俯瞰することで得られるものは有ります。それが問いです。

こうした俯瞰から得られる問いは多岐に渡りますが、大枠としては「実在」についての問いになると思われます。
この問いに対する答えは知性や他者が与えれるものではない、と考えます。物事の本質とは与えれるものではなく、自身で掴むものである、という解釈とも似通っています。実在についての問いは知性や他者が与えても、自身にとって消化しきれる又は同一の解釈に落ち着くものではないからです。余計に混乱する場合もあるかもしれません。
この問いに対する回答は自身に依る試行や思考からのみ得られるものであると考えます。つまるところ、俯瞰をして自身を見つめた瞬間から、この長い問いが始まり、宗教的或いは哲学的な思考が始まるものである、と。

自身が見る風景と、他者が見る風景は必ずしも同一であるとは限りません。これはコトモノに対して全てに言えます。
私が美しいと感じる風景を、万人が等しく美しいと思うとは限らないのです。つまりは、これと同じです。繰り返しになりますが、知性や他者から生れ出た問いであっても、その答えがその知性や他者から生れ出るとは限らないと云うことです。

着地するかもしれませんし、着地するものではないかもしれません。
問い続けることが重要だと思います。