ただの雑駁

理屈と均整を求めたがります。仕方ないですよね。人間だもの。

面白くない仕事はやりたくない派

なんで忙しい日って唐突に忙しくなるんでしょうね。
決まって朝方から忙しくなって、「あ、今日一日忙しいやつだ」って直感的に分かっちゃったりするんですよ。
そして、昼飯を食べるタイミングを見失い、夜飯をかっこみ、また仕事に戻り、最終的に日付跨ぐ前くらいに終わるんです。寝る前までに1時間位の猶予が取れたら、それはそれでラッキーで、じゃあ少しでもなにかしようかと、頭の使わない行動に出るんです。

これをバッサリと嫌だというか、業務内容に依る、と言えるかでだいぶその人の仕事感が分かりますね(笑)
私は業務内容に依るんですけど、面白かったら何でも良いですね。面白くもない仕事を8時間ぴったり働く人は逆にすごいな、と。私には無理です。
仕事とプライベートの比率ってよく挙げられますけど、いくらプライベートを充実させるためとはいえ、仕事している時間って長いんですから面白くないことをやるべきじゃあないと思ってしまいますね。

自分の人生を他人に干渉してもらいたい

久々に気持ち揺れ動きました。
なんか久しくどうでも良いと思っていることに、自分の予期せぬ出来事が挟まれると気持ちって揺れるものですね。

何にせよ、どんな感情であろうと揺れ動かされるのは楽しいですね。

「自分の人生を他人に干渉してもらいたい、それが、愛されたい、という言葉の意味ではありませんか?犀川先生・・・。自分の意志で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意志ではなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか?」
(すべてがFになる/森博嗣)

久々にこの言葉を思い出しました。

自己で完結しないのは、やはり面白いですね。

利己的な行動の完全な排除は不可能

ちょっと引っ掛かってしまったので、読み止し。

「利他的なことこそ、マクロな意味での利己性。そうして利己性が利他性の上位概念として居座っている限り、利己的な行動の完全な排除は不可能。」
(ニルヤの島/柴田勝家


うーん。纏まっていて、いい言葉です。これ、常日頃から感じて生きています。
ざっくりいうと、「誰かの為に成すことが本当に誰かのためだけに成しているのでしょうか。いやいや、自分の利にも影響していますよね?」ってことです。

無意識レベルでも起きていると思いますし、意識して起こしているヒトもたくさんいると思います。別にそれの良し悪しを問う必要性は全く無いと思っていますが、ある程度の自覚と理解はしておいた方が精神的に健康だと思います。
でも、この意識が常に存在していると何もかもが疑心暗鬼になってしまいます。その塩梅が中々むつかしいです。薄情なヒトってほどではないですが、何とも味気ない感じがしてしまうじゃないですか。ちなみに本件、大体2通りの解釈で乗り切れるのではないかと。「放念」か「熟考」かのどちらかです。

「放念」というのは、「まぁ、いいか」と何も考えずに全てを受け入れる状態を言っています。他人があれこれしてくれてるけど、裏があろうがなかろうが、まぁどうでもいいか。みたいな感じです。
「熟考」というのは、言葉の通りで受容したときのリスクを全て考えて、それなら「まぁ、いいか」と判断することを言っています。駄目であれば自分が悪いですし、納得感付きますよね。

実はもう一つ解釈が有ると思っていて、純粋な利他的なことです。これは一種の「愛」ですよね。
「愛とはなんぞや」なんて述べる気はありませんが、純粋な利他的なことは「愛」って言っても差し支えないんじゃないか、と思っています。


思い出すほどのことではない

昔々に金曜ロードショー木曜洋画劇場で見た映画で何となく内容は覚えてたりするんですが、タイトルまで思い出せない。みたいな映画って結構あると思います。
子供の頃ってそういった映画に加えて、親とかが映画好きだとよく分からない洋画とか見せられたりするんですよね。そういった経験が元になって成長していくものだと勝手に思ってたりします。

今の御時世インターネットが普及しているので、何となくワードを羅列して適当に検索かけるとヒットしたりするんですよ。ほんと、便利な世の中です。
本日、ふとそういった追憶の糸を手繰ってある映画を思い出しました。あらすじはざっくり以下です。

昏睡状態から目覚めた男が復讐する

たったこれだけの情報なんですけど、グーグル先生に「昏睡 復讐 映画」って検索かけると速攻でヒットします。そうです。スティーブン・セガール主演の「ハード・トゥ・キル」です。

山の中で昏睡状態の鈍った身体を鍛え直す修行シーンだけが記憶に残っていて、改めて鑑賞してみると冒頭だったり、結末だったりの記憶が蘇りつつ鑑賞できたので何とも不思議な感覚でした。
(多分、15〜20年くらい前に観たはず。。)

ごくたまにこうやって、何となく覚えているけど思い出すには至らない。みたいな作品を意識してあげて(意識することが大切)ネットで検索かけてあげると思わぬ拾い物とかがあるかもしれません。

【感想】マルドゥック・アノニマス5 / 冲方丁

マルドゥックシリーズ最新巻、アノニマスの5巻がついこないだ(5/26)発売されましたね。
大体1年に1冊くらいのペースで刊行されているので、毎年の楽しみになりつつあります。

ぶっちゃけ、5巻は語ることないですね。
書評をするにしても4−5巻の2冊を複合して語るべきかな、と感じました。
4巻が怒涛の連続過ぎて、情報量も多くて隙のない面白さだったんですよね。5巻はその4巻のネタバレというか、深堀りに近いので、5巻の内容としては完全に溜め回って感じがしました。

しかしですよ、あまり過去作を振り返って歩いてはいないので何とも言えないのですが、バロット氏の成長著しいですね。アノニマスが始まってバロットが出る度に思っていましたが。
あのスラム出身の娼婦の女の子が今やロースクール行って、家庭では同じような境遇の女の子を救済までしてますからね。ちょっと泣けますよね。

4巻のときでしょうか、うろ覚えですが以下のような問いというかくだりがあって

環境がなければ人は思想を獲得することが出来ないのか。
思想の背景は弱みとなるのか、強みとなるのか。

バロットとハンターの「ルーツ」の違い、そしてそれによる思想の獲得の違いが描かれていましたが、今巻でもやはりバロットとハンターのお互いに自身の内面を理解していくという流れが肝だと思いました。

次巻は総決算な気がしますので、気長に楽しみに待ちたいですね。


それって本当に必要でしょうか。

今週のお題「外のことがわからない」

「外のことが分からない」ってリアル(現実)の話ですよね。
インターネット(仮想)の世界だとコロナ前より全然分かるようになっているのではないでしょうか。

リアルで外のことが分からなくて、何か困ることってあるんでしょうか。外のことが分からないなら、中のことを深く理解する良い機会だと逆に思っています。
自分のこととか、家庭のこととか、気にすべきポイントは沢山あるのではないでしょうか。

個人的な意見ですが、「外」を気にしすぎても良いことは何もないと思います。
他人の発言だったり、世の中の流行だったり、あらゆる「外」の情報って本当に必要でしょうか。必要な情報も勿論ありますが、過度に(不要な)情報を求めている人が多いと思います。
「不要かどうかわからないから、とにかく情報を集めるんだ。」みたいな人もいるでしょうが、結局自分の考えが構築できていないように見えます。これは何を考えるべきか、という点です。

「それって本当に必要でしょうか。」って問いたくなっちゃいますね。

抽象さが美しいのか、明確さが美しいのか

本日、『攻殻機動隊 SAC_2045』のエンディングテーマを担当しているMiliさんの「sustain++;」が発売・配信されました。

ご存知のない方はYouTubeにて公開されています。

youtu.be

この歌の冒頭の歌詞の部分ですが、中々難しいなぁ、と思って聴いています。

If abstraction is the definition of beauty
Are those of us chasing after clarity
A representation of ugly?

もしも、抽象こそが美の定義だとしたら
明確さを求め続ける私達は
不細工の象徴になるのでしょうか


抽象が美の定義になりうるというのは凄く分かります。
私個人の意見ですが、抽象って俯瞰なんですよ。そして、俯瞰って解像度の低さに直結します。解像度が低いということは物事を明確に示す境界が分からないことになります。
物事を明確に把握できないのが、美しいかどうかでいうと、美しい場合があるんですよね。

例を挙げますと、西洋絵画では写実を瞬間の印象として抽象的に(解像度を低く)描く「印象派」などがありますし、それこそ文字通りの「抽象派」もあります。
他にも、日本の美徳にまつわる言葉で「言わぬが花」がありますね。これは多くを語らずに、解像度が低い状態のほうが良いとされていますね。歴史的にも抽象表現が美しいと感じるのは明白です。

では、明確が美の定義になりうるかというと、これもまたなりうると思います。
明確とは0か1かです。鮮明にして、解像度が高く、物事を認識する境界がはっきりと分かることを示します。この明確な(シンプルな)美しさには妥協や不完全などの不純物は許容されないです。
例を挙げますと、自然などがわかりやすいです。自然ほどシンプルなものはありません。他にも、数学の定理や純粋な勝負事(勝ち負け)など色々な事柄に当てはまりますね。

じゃあ、「抽象と明確は美を語る上で対義的な表現なのか」というと、そうでもないとも思っています。これが難しいなぁ、と思っている部分です。
抽象表現の中にも明確なものはある場合や、明確な表現の中にも抽象なものがある場合が有り得るんじゃないか、と感じているからです。

人間って当たり前に明確さを求め続けてしまう一方で、自ら抽象的な美しさを作り出す面もあります。明確さの元を辿ると自然原理だったりして、事実それは美しいかもしれません。ただ、抽象さを作り出す元が人間であるならば、それはそれで美しく、尊いものであるかもしれないです。