ただの雑駁

理屈と均整を求めたがります。仕方ないですよね。人間だもの。

利己的な行動の完全な排除は不可能

ちょっと引っ掛かってしまったので、読み止し。

「利他的なことこそ、マクロな意味での利己性。そうして利己性が利他性の上位概念として居座っている限り、利己的な行動の完全な排除は不可能。」
(ニルヤの島/柴田勝家


うーん。纏まっていて、いい言葉です。これ、常日頃から感じて生きています。
ざっくりいうと、「誰かの為に成すことが本当に誰かのためだけに成しているのでしょうか。いやいや、自分の利にも影響していますよね?」ってことです。

無意識レベルでも起きていると思いますし、意識して起こしているヒトもたくさんいると思います。別にそれの良し悪しを問う必要性は全く無いと思っていますが、ある程度の自覚と理解はしておいた方が精神的に健康だと思います。
でも、この意識が常に存在していると何もかもが疑心暗鬼になってしまいます。その塩梅が中々むつかしいです。薄情なヒトってほどではないですが、何とも味気ない感じがしてしまうじゃないですか。ちなみに本件、大体2通りの解釈で乗り切れるのではないかと。「放念」か「熟考」かのどちらかです。

「放念」というのは、「まぁ、いいか」と何も考えずに全てを受け入れる状態を言っています。他人があれこれしてくれてるけど、裏があろうがなかろうが、まぁどうでもいいか。みたいな感じです。
「熟考」というのは、言葉の通りで受容したときのリスクを全て考えて、それなら「まぁ、いいか」と判断することを言っています。駄目であれば自分が悪いですし、納得感付きますよね。

実はもう一つ解釈が有ると思っていて、純粋な利他的なことです。これは一種の「愛」ですよね。
「愛とはなんぞや」なんて述べる気はありませんが、純粋な利他的なことは「愛」って言っても差し支えないんじゃないか、と思っています。