ただの雑駁

理屈と均整を求めたがります。仕方ないですよね。人間だもの。

抽象さが美しいのか、明確さが美しいのか

本日、『攻殻機動隊 SAC_2045』のエンディングテーマを担当しているMiliさんの「sustain++;」が発売・配信されました。

ご存知のない方はYouTubeにて公開されています。

youtu.be

この歌の冒頭の歌詞の部分ですが、中々難しいなぁ、と思って聴いています。

If abstraction is the definition of beauty
Are those of us chasing after clarity
A representation of ugly?

もしも、抽象こそが美の定義だとしたら
明確さを求め続ける私達は
不細工の象徴になるのでしょうか


抽象が美の定義になりうるというのは凄く分かります。
私個人の意見ですが、抽象って俯瞰なんですよ。そして、俯瞰って解像度の低さに直結します。解像度が低いということは物事を明確に示す境界が分からないことになります。
物事を明確に把握できないのが、美しいかどうかでいうと、美しい場合があるんですよね。

例を挙げますと、西洋絵画では写実を瞬間の印象として抽象的に(解像度を低く)描く「印象派」などがありますし、それこそ文字通りの「抽象派」もあります。
他にも、日本の美徳にまつわる言葉で「言わぬが花」がありますね。これは多くを語らずに、解像度が低い状態のほうが良いとされていますね。歴史的にも抽象表現が美しいと感じるのは明白です。

では、明確が美の定義になりうるかというと、これもまたなりうると思います。
明確とは0か1かです。鮮明にして、解像度が高く、物事を認識する境界がはっきりと分かることを示します。この明確な(シンプルな)美しさには妥協や不完全などの不純物は許容されないです。
例を挙げますと、自然などがわかりやすいです。自然ほどシンプルなものはありません。他にも、数学の定理や純粋な勝負事(勝ち負け)など色々な事柄に当てはまりますね。

じゃあ、「抽象と明確は美を語る上で対義的な表現なのか」というと、そうでもないとも思っています。これが難しいなぁ、と思っている部分です。
抽象表現の中にも明確なものはある場合や、明確な表現の中にも抽象なものがある場合が有り得るんじゃないか、と感じているからです。

人間って当たり前に明確さを求め続けてしまう一方で、自ら抽象的な美しさを作り出す面もあります。明確さの元を辿ると自然原理だったりして、事実それは美しいかもしれません。ただ、抽象さを作り出す元が人間であるならば、それはそれで美しく、尊いものであるかもしれないです。